建築・デザイン系

第8回 木造研究部会

 第8回木造研究部会は「ひとづくりフォーラム」との合同開催となった。前半の教育・訓練施設の見学がフォーラム、後半の伝統木造建築物見学を木造研究部会が受け持って開催された。全体の日程は、平成14年11月29日(金)から12月1日(日)で実施された。この本報告では、11月30日(土)の午後からを行う。参加者総数は20名(会員11名)である、北海道から九州まで広範囲からの参加者が集まった。

 森林たくみ塾の見学の後、高山へと移動が始まった。正午過ぎに高山に到着、高山市内の建物見学の後、白川郷へ移動し、合掌造りの民宿に一泊、翌日昼過ぎまで白川郷の見学を行った。昼食で「岩魚塩焼き定食」を堪能して、各自帰途についた。実施が12月初めとなり白川郷の3日前は大雪であったが、実践研メンバーの「日頃の行いの良さ」か雪も降り止み、うっすら雪景色での(底冷えのする)見学であった。

1.高山市内見学

1.1 高山陣屋

 高山陣屋は高山城主金森氏の屋敷の一つあった。

 金森氏が上ノ山(山形県)へ移されてからは、徳川幕府の直轄地(天領)となり、江戸から代官や郡代がきて、ここに役所をおき飛騨の政治行った場所である。

 明治に入ってからは、県庁、郡役所、支庁、県事務所など代々、地方の役所として使われてきた。代官所の建物が残っているのは全国で高山だけである。

 広大な建物であるが時間制約から30分余りでの急ぎ足での見学となった。

写真-1 高山陣屋正面


1.2 高山市三町伝統的建造物群保存地区

 高山陣屋を出て、昼食場所を求めて伝統的建造物保存地域にやってきてびっくり。ここは東京かと間違うばかりの人人人。分散昼食として、最後の見学地「飛騨高山春慶会館」での集合まで個別見学会となった。

 天正13年(1585)、豊臣秀吉の命を受けた金森長近が飛騨を平定し、城下町を建設した。その中の商人町が、現在国の重要伝統的建造物群保存地区となっている。

 狭い通りを挟んで洗練された意匠の町家が並び、ベンガラ塗の出格子や胡粉塗の腕木等は町人町として栄えた面影をよく残している。

 三町(さんまち)とは、上一之町、上二之町、上三之町の3つの町筋からなる。

 人を見たのか建物を見たのかは?

写真-2 三町(さんまち)筋


1.3 吉島家住宅(国指定重要文化財)

 分散したはずのメンバーは昼食もそこそこに次の見学建物の吉島住宅にやってきた。山町筋とは違い観光客も我々メンバー以外にはほとんど見受けられない状態でゆっくりと見て廻れた。一般観光客とは目的が違う?

 この建物は明治41年に建築された。昔は、造り酒屋だったため、軒下には大きな酒ばやしが吊ってある。大黒柱を中心に、梁と束によって構成される吹き抜けは、高窓からの光線をたくみに屋内に取り入れ、柱や鏡戸の木目を美しく見せている。

 隣家の日下部家が男性的な建物に対し、この吉島家は建物のすみずみまで神経のゆきとどいた美しく、繊細で女性的な建物といわれている。

 見学者は吹き抜けの梁と束・貫で構成された立体格子にうっとりとしていた。


1.4 日下部民藝館(国指定重要文化財)

 この建物は明治12年に建築された。いかにも雪国の民家らしく、低く深く、しかも重々しい軒、どっしりとした構えの中に美しい出格子がある。

 隣り合う吉島家とともに町家建築としては、初めて重要文化財に指定された。豪快に組み上げられた梁組みと広い土間が表す空間美は、江戸時代そのままの技法を最大限に生かした民家建築の集大成とも言える建築物である。

写真-3 和田家正面


1.5 高山屋台会館 (国重要有形民俗文化財展示)

 桜山八幡の屋台会館は秋の高山祭にひき出される11台の屋台を年3回(3月・7月・11月)4台ずつ入れ替え展示している。

 屋台は「飛騨の匠」の技術の結晶といわれている。また、附設館として桜山日光館があり、日光東照宮の10分の1の精巧な模型が展示されている。


1.6 飛騨高山春慶会館

 飛騨高山の伝統工芸として長く培われてきた、透漆を用いた春慶塗の逸品約1,000点を江戸、明治、大正、昭和と時代を追って展示している。春慶塗りの作業工程も分かりやすく紹介している。

 が、この展示館を見学できたのは数名であった。途中の建物見学に時間を掛けすぎたようである。

写真-4 高山祭りの屋台


2.白川郷(世界文化遺産 萩町合掌造り集落) 
 後ろ髪を引かれる思いを振り切って、今夜の宿白川郷へ移動を開始した。

 外気温は氷点下、路面の状態を気にしながらも白川郷へ向けてワンボックスカー3台を連ねての大移動である。予定より1時間遅れで民宿「きどや」到着。

 今回は大部屋を全開放して寝床をひき学生時代の修学旅行スタイルである。早速の夕食、白川の郷土料理を頂きながら、あちこちで今日観た建物や訓練施設の話題で盛り上がった。

 白川郷は早寝・早起きが規則といわれ、皆いつもより早く蒲団に潜り込んだがやはり寝付いたのは、午前様であっただろうか。

 

写真-5 白川郷合掌造りの民家

 翌朝まだ日も昇らぬ前からあちこちでゴソゴソ。防寒対策を充分にして早朝の合掌造り集落の撮影大会である。集落をあちらへこちらへとベストポジションを求めてウロウロ。出くわすのはメンバーばかり。

 白川村は岐阜県の最北端に位置し、合掌造りで有名な白川村荻町集落は、村のほぼ中央に位置し総人口604人、総戸数149戸で内農家は109戸という集落である。

 昭和30年代から白川村全般に合掌造り家屋が減少傾向を示し、比較的遅くまで残っていた萩町集落も昭和40年頃からその兆しが濃厚になってきた。

 そんな折、合掌建造物の美しさと文化的価値に気づいた人々により保存運動が生まれた。運動の輪は萩町全体に広がり、住民全員の合意によって「白川郷荻町集落の自然環境を守る会」が結成された。そして保存条例の制定、伝統的建造物群保存地区の指定にまで広がった。

 現在では住民、守る会、行政の三者が一体となって「合掌集落荻町」の景観保全と生活向上との調和による地域振興を目指している。

 萩町の集落保存物件は伝統建造物が124ある、内合掌造り家屋が59棟である。平成7年12月に「白川郷・五箇山の合掌造り集落」世界遺産登録を受けた。

 朝食をすませて今日半日白川郷を案内していただく三輪晴吉氏を待つこととなった。三輪氏は「白川村文化財保護審議会会長」「白川郷観光案内の会会長」「元白川小学校校長」であり、白川郷の保存に尽力をかたむけておられる。

写真-6 明善寺鐘楼門

(明善寺鐘楼門は県指定建造物で、屋根は茅葺きであるが、1階に板庇を付けた珍しい建物である。享和12年(1801)に建造されたとされている)


2.1 合掌ミュージアム

 道の駅「白川郷」は、合掌造り風の演出が映える建物である。その隣に合掌ミュージアムと称する売店・合掌造りの展示館がある。

 規模的にはこじんまりとしているが、村の特長をうまく形にした駅に感じた。 展示館には「合掌造り」の構造や仕組み、あるいは使用されている材料などを、村内から移築された本物の「合掌造り」を使って展示、説明を行っている。

 三輪氏は、建築は素人であるが我々のため事前に充分に知識を得ておられ、微に入り細に入り、合掌造りの構造や建築方法について説明を頂いた。

 展示館内に入った途端、目の前に合掌造りの屋根の部分が目にとびこんでくる。あまりに間近で見るため、迫力そのものである。 2箇所のモニターでは、屋根のカヤ葺きや石場カチ(家の基礎づくり)の模様を紹介しており、思わず見入ってしまった。順路に従って歩いていくと、屋根の中へと入り込む仕掛けで、合掌造りの概要が全身で分かるような展示であり、三輪氏の説明と相まって、時間が経つのも忘れるほどに夢中になっていた。

 「合掌造り」とは、木材を梁(はり)の上に手の平を合わせたように山形に組み合わせて建築された、勾配の急な茅葺きの屋根を特徴とする住居である。白川では「切妻合掌造り」といわれ、屋根の両端が本を開いて立てたように三角形になっているのが特徴で、積雪が多く雪質が重いという白川の自然条件に適合した構造である。また、建物は南北に面して建てられおり、これは白川の風向きを考慮し、風の抵抗を最小限にするとともに、屋根に当たる日照量を調節して夏涼しく、冬は保温されるようになっている。

写真-7 合掌ミュージアム展示


2.2 萩町城跡城山天守閣の展望台

 集落全体をみわたせる展望台に場所を移して、三輪氏から集落の保存について説明を受ける。三輪氏の保存にかける熱い思いが会員全員に伝わってきた。

 「結」のように茅の葺き替えばかりでなく、保存には村民の生活そのものが相互扶助で成り立ち、お互いがお互いを尊重し合わなければこの保存は成り立たないことが語られた。寒さで手足の感覚が無くなってしまいそうな中で、全員が説明に聞きいっていた。

 それにしても、この展望台から見る集落は、まるでおとぎ話の中にいるような錯覚を覚えた。

 

写真-8 展望台からの白川郷

 守る会では3原則「地域内の自然について売らない・貸さない・壊さない」を基本に、次の方針を定めている。

  1. 建造物の修繕並びに建築等に用いる色は、黒又は黒かっ色系統にする。
  2. 環境にそぐわない看板、広告等は掲示しないようにする。
  3. 集落の景観を損うような建物、その他施設は設置しないよう努める。
  4. ゴミの無い美しい集落の実現に努める。

 この合掌建造物を維持するため、古くから「結」による相互扶助がある。また合掌建造物は、火に弱いため、自治会による1日4回の火の用心見回りを実施、その他の一般建築物については、守る会の方針 1. と 3. にもとづき色彩の統一や「白川村建築様式参考図案」によった建築が求められている。

写真-9 萩町集落(ガイドブックより)


2.3 和田家(国指定重要文化財)

 間口14間、奥行7間の茅葺き合掌造り住宅で、建築年代は江戸中期から後期と推定されている。萩町に残る合掌造りでは最も規模が大きく、周囲の庭、生垣、水路も保存物である。

 この和田家は古文書や鑑札等から、番所の役人を勤め、焔硝(火薬)や生糸の取り扱いを行っていた。そして今なお住宅として使用されている等のことが三輪氏により語られた。

写真-10 和田家住宅外観

写真-11 オクノデイ(客間)で説明する三輪氏 


2.4 合掌造り民家園

 1972年に完成した合掌造り民家園は1967年に廃村になった加須良地区(白川村の最西北に位置)の集落を移築し展示しているところである。萩町の合掌集落では、今なお実際に生活をしているので見学することが難しいが、ここ合掌造り民家園なら中に入って見学することができる。

 この駐車場で三輪氏とはお別れである。参加者一同もっとお話を聞きたいと思いながらも心からお礼を申し上げて自由行動となった。

 これまでの見学が時間超過(もっともとても3時間で見て回れるはずもなく)のため、民家園への入場をあきらめ買い物に精出す参加者も。

写真-12 合掌造り内観


2.5 合掌造りの「基太の庄」で昼食
 事前に昼食は予約しておいてくださいとの観光協会のアドバイスに従って「岩魚焼き魚定食」をたのんであった。冬も近く観光客が少なく予約をしておかなければならいのかと思っていたのにあにはからんや満席である。

 先ほどの民家園の駐車場は大型バスがいっぱいであり、高山同様人が溢れていた。三輪氏が嘆いていたが、高速道路がつながって白川郷は通過点になってしまったとか。宿泊客は減少しているとのことである。なるほど早朝は参加者の顔しか見えなかったのに、今は黒山の人だかりである。このため村人が進めているゴミの無い町は、モラルの低い観光客によってゴミだらけの村になりかねない状況である。過疎が止まって若者が帰ってきて村が活性しているが、静かな生活が喧噪の中に飲み込まれていっているようだ。

 すばらしい建物・風景を見た後だけにちょっぴり胸に引っかかる物を覚えながら、昼食後各々帰宅の途についた。

写真-13 遠山家

番外編:帰路の白川街道の御母衣ダム手前に位置する。

 

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