建築・デザイン系

建築系 地域情報 Vol. 14

 

浜寺公園駅(大阪府堺市西区)

2011.8
近畿職業能力開発大学校 田島

 今年(平成23年)の5月には、大阪駅に大屋根もかかり新しく生まれ変わりました。

 今回は駅をテーマに、大阪府堺市西区にある浜寺公園駅を紹介します。浜寺公園駅は、東京駅、日本銀行本店などを設計した辰野金吾の設計によるものです。

明治40年築 浜寺公園駅 全景

 

 なぜ?堺の私鉄(現在:南海電鉄)の駅舎を辰野金吾が設計したのでしょうか? それは、その周辺である浜寺地区の歴史をひもとくと理解できます。

 ここ浜寺は、関西では芦屋、須磨、帝塚山と並び高級住宅地として知られるエリアです。 また隣接する海は、古くから白砂青松の景勝地として和歌に詠まれ、与謝野鉄幹、晶子、谷崎潤一郎、夏目漱石など多くの文化人達が訪れた場所でもあります。

 ここで、堺を代表する歌人与謝野晶子が浜寺を詠った一連の短歌を3首紹介します。

 背景としては、明治32年に与謝野鉄幹が発行していた「明星」に短歌を発表し、これをきっかけとして明治33年8月4日に関西に来た与謝野鉄幹と初めて逢いその翌日、浜寺公園の料理旅館「壽命館」で開かれた歌会に出席した二人の仲は、熱烈な恋に発展し翌 34年 晶子は代表作「みだれ髪」を発表、その翌年には鉄幹と結婚しました。

 では、どうぞ情景を想像ください。

・わが恋をみちびく星とゆびさして君ささやけし浜寺の夕
・松の外一草も無きふるさとの高師の浜に踏めるしら砂
・ふるさとの和泉の山をさわやかに 浮けし海より朝風の吹く

 明治から昭和にかけては、海浜リゾート地。海水浴場としては環境・設備が良く「東洋一の海水浴場」と言われ「関東の湘南 関西の浜寺」と並び称されて、ひと夏100万人といわれる多くの避暑客・海水浴客を集め発展してきた場所です。その玄関口が浜寺公園駅です。

 明治40年、難波〜浜寺公園間を電化し、それに合わせて建て替えられたものが現在の駅舎です。 我が国で、現存する最古の洋風駅舎と言われ平成10年に国の登録有形文化財にしてされています。

 建物の特徴は、屋根正面に見えるドーマ(屋根窓)、ハーフティンバー(柱の骨組みを壁に埋め込まずに装飾として活かす様式)、玄関ポーチの開放的なアーケード、とっくり形をした大きな柱回り(鹿鳴館の2階ベランダに用いられた柱と類似)などが挙げられます。

ファサード(ドーマやハーフティンバーが特徴)

 

開放的なアーケード・とっくり形の柱回り

 ここで、辰野金吾氏について簡単に説明します。

 1854年(安政元年)8月22日唐津藩藩士の次男として生まれる。 後に叔父の辰野宗安の養子となり辰野金吾と改名。 唐津では、のちの首相・日銀総裁となる高橋是清に英語を学ぶ。 工部大学校(現在の東大工学部)1期生でコンドルから19世紀古典主義の様式建築を学ぶ。 主席で卒業後、英国に留学(ロンドン大学)。 帰国後、工学博士として工部大学校教授、東京帝国大学工科大学学長、日本建築学会会長を歴任し数多くの建築物を設計し建築界をリードした。 1919年(大正8年)3月25日逝去

駅を降り立って見る海岸への道。当時の風景は?

 

 最後に大変残念なことですが、戦後の高度経済成長の波にのまれ昭和37年頃から、対岸が埋め立てられ臨海工業地となって海を失いました。

 堺は、経済と引換にとても大切なものを失いました。 古くから堺市に住んでいる知人になぜ「埋立てをしてしまったのか?」と尋ねたところ、「反対意見も確かにあったが、当時は近代化へのあこがれ、煙突が建ち並び煙を出す姿こそが近代化だ!」とまで言われていたようです。 即効薬には必ず、副作用があるいわれますが・・・・。

 経済を取るか? 自然を取るか? 短期的な判断により大切な自然は失われました。 失って初めて気づくのかもしれませんが、その時では遅いのです。

 原子力発電所の問題に関しても、我々は今どうすべきかの判断を問われている時です。 重要な判断は、本質的視点、客観的視点、長期的視点で行うべきだと思います。

 以上、地元のお宝の一つである浜寺公園駅の紹介を終わります。

 PS.
 昔のようなイメージはないでしょうが、今なお落ち着いた風情と、たたずまいを残す堺市南部の「浜寺」及び「浜寺公園」です。 私の自宅からも自転車で15分くらいです。 大阪へ来られた時は、いつでもご案内します!

 

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