建築・デザイン系

第5回 木造研究部会

 今回は全国伝統的工芸品指定「播州三木打刃物の町・兵庫県三木市」を訪問した。

1.三木の刃物の興り

 刃物の町「三木」の歴史は、戦国時代の別所一族に大きく関係している。別所氏が西国・九州から京に上がるルートの宿場町であった三木に築城したことに始まる。三木町は当時、別所氏の保護の下、木工匠や紺屋が栄え、それに伴い鍛冶も赤松−別所の関係から西播磨の千種鋼(チグサハガネ>)、備前長船一派の刀鍛冶や、姫路野里の鍋・釜の鋳造などの影響を受けてかなり優秀な技術を持っていたと推測されている。

 織田信長の中国攻めに際し毛利側に味方した別所長治は、天正6年(1578年)から2年間にわたり羽柴秀吉軍と戦うが、長治や一族の自刃により幕を閉じる。この戦いによって鍛冶も大工も三木より四散し、三木金物はこれ以前の記録をまったく無くしている。

 戦勝した秀吉は荒廃した三木町の積極的な復興に乗り出す。この復興に際して、三木の町に大工職人が全国各地から集まり、寺院や家屋の復旧に当たる。大工職人の集中は鍛冶職人を必要とし、三木大工道具鍛冶の発生・発展を促し、今日の基礎を築いたと考えらている。

 町の復興後、大工職人は近畿地方を中心に出稼ぎに出ることになる。勿論三木の大工道具を持参しており、この道具が各地で評判が高く、自分の道具を売って帰ることも興り、この行為が発展して製品の販売のみを扱う仲買人の登場に繋がったと思われる。また、各地の道具の情報や要望も三木に集まり、その情報や経験を生かして出稼ぎ大工が大工道具鍛冶工に転向したり、農家の子弟を吸収するなどして鍛冶工が増し、多種の大工道具や包丁・鋏の製造がなされるようになった。

 というような説明を、三木工業協同組合事務局長の渡辺健三氏によってなされる中、「金物資料館」の見学をおこなった。渡辺氏にはその後の大工道具製造所二カ所の道案内してもらうことにる。


2.初参加者と日程

 今回は東播工業高校の建築科の先生方(もちろん内藤先生が先頭に立って)の参加もあり、いつもとは違ったメンバー構成で、総数18名の参加となった。

写真-1 金物資料館見学

 京都左官協同組合から紹介を頂いた三木工業組合を通して前回木造研究部会講演者の香川棟梁の推薦でもある鉋の山口房一工房と鑿の五百蔵(イオロイ)鑿製造所の見学を申し込みをし、快諾を頂いた。

 今回の研究部会の日程は「金物資料館」「山口房一工房」「五百蔵鑿製造所」を平成12年11月25日の午後に、そして翌日の26日の午前中に神戸市の「竹中大工道具館」の見学会を企画・開催した。


 

3.鍛接・鍛造に目を丸くする参加者

 「金物資料館」を後にして「山口房一工房」へと向かう。山口氏は香川棟梁の開口一番に出てきた名前であり、播州三木打刃物伝統工芸士19名の一人である。「削ろう会」には鉋鍛冶として参加し、使う人造る人の生の声により切れ味を追求している。銘は「天一目」である。伝統的な鍛冶職人の工房をまず見学となったが、土曜日にもかかわらず我々のために工房を稼働させ、用意万端で出迎えて頂いた。

 鉋刃の製造工程は、錬鉄(地金)に特殊鋼(はがね)を鍛接する事から始まる。このときの音がすごい音。一同何が爆発したのか一瞬身じろいでしまった。

 

写真-2 山口房一工房での鍛造風景

 鉋刃の地金は古い鉄橋や船の材料を素材としている。現在の鋼は硬くて研ぎにくい。少し不純物が混入している材料は、ほかには使い道がないが刃物の地金としては最高品である。しかしこれも手に入りにくくなっているとのことである。この地金を1300℃に加熱し叩いてのばしていく。形ができあがったところで高炭素刃物鋼又は特殊刃物鋼を鍛接する。この特殊鋼を白紙2号(鑿用)、青紙1号(鉋用)というのだが、聞いたときはエッ色紙って???という無学さを露呈してしまった。

 

写真-3 山口氏の説明に聞き入る

 鍛接のあとは「鍛造しそして地金からたがねで切り落とす」→「鉋身を鍛造しながら頭成型」→「小ならし(鍛造)」→「火づくり」→「研ぎ」となる。

 火づくりの詳細は、「焼きなまし」→「ヤスリかけ」→「ならし」→「仕上げ」→「刻印打ち」→「焼入れ」→「焼戻し」となる。ここまでが山口氏の仕事で、研ぎは専門職に委ねられていた。

 ならしから仕上げでは、表を中央部をわずかにくぼめ、裏面は付けはがねの中央部をわずかにすき削ると説明されても老眼の小生には見分けがつかなかった。

 会員の細かな質問にも実際にその作業を行いながら説明を頂いた。30分以上の予定時間超過の後、お礼もそこそこに次の五百蔵鑿製造所に向かった。


4.欧米に輸出される高級鑿が目に眩しい参加者

 工場生産(分業)方式の鑿製造所の五百蔵鑿製造所を訪れた。社長の五百蔵幸三氏が直々の出迎えで、すぐさま事務所で説明会が始まった。鑿は一万種類以上があることや、五百蔵鑿製造所からは数多く欧米に鑿を輸出している。アメリカへの鑿は、家具や楽器の製造に使われており、ドイツには黒檀の柄をつけて桐箱に入れ一本づつで出すこともあり、基本的に輸出品は高級品である。高級品の木目(モクメ)鑿は柔らかいので日本の職人が好み、墨流し鑿はカーボンが入って硬いがその美しさから外国の職人に好まれることが紹介された。

 

写真-4 五百蔵氏の熱弁に聞き入る

 

 また、古くは鑿の刃先のみ製造販売していたが、30年目からは柄をつけて出すようになり、今では半製品(研ぎ前)まで製造しておき、即納が可能な体制を採っていることや、集成材用の鑿を開発(鋼(刃先)が小さいが刃先の硬い)をしたことなどが矢継ぎ早に説明された。

写真-5 鑿の刃先の特殊鋼取り付け

 

 製造工程は錬鉄(地金)に特殊鋼(はがね)を鍛接する事から始まるのは鉋刃と同じであるが、鍛造(穂打ち)の時側面にもはがねを廻し込む必要がある。鍛接の温度は1150℃、鍛造は1220℃という細かな温度差まで教えられ。穂打ちの後は、「鍛造(軸打ち)」→「火造り」→「なまならし」→「研磨(荒やすり)」→「仕上げ研磨(細目)」→「焼入れ・焼戻し」→「裏研・裏押・刃付」→「柄成型」となる。焼入れは白紙1号で780℃、青紙2号で810℃、焼戻しは180℃で10分から15分かけて行うとの説明があった。この後会員は工場内に入り各工程で作業しているところを興味深く見学を行った。

 

 しばらくして、社長の呼ぶ方向に向かうと、そこは私的道具館であった。これまでに注文があった刃物の高級品は同一の物を造って保存しているとのことであった。初めて目にする高級品の数々が所狭しと展示されており、外国や国内の大工さんからこの刃物が欲しいと展示物を見ての引き合いがあるとのことであった。その中からやはり出てきた「槍鉋(ヤリガンナ)」。この槍鉋は堂宮の大工さんと試行しながら造ったことが語られた。

写真-6 やりかんなの説明

 

 また、木舞下地を組むとき使用される専用鑿の「えつり鑿」も紹介された。小生木舞下地調査で名称だけは知っていたが現物を見るのは初めてであった。これは、木舞下地の「間わたし竹」を取付ける穴を穿つ為の専用鑿である。

写真-7 えつり鑿

 

 さてこれは何に使う道具でしょうと見せられた分銅のような道具を示された。一同ああやこうやといったが正解は無し。実は胴金(下輪(柄の先端補強金物))を下げる道具であった。こんな専用道具があるんだなんて感心をしていたらどうぞ持って帰って下さいと3ヶほど頂戴してしまった。最後に研究部会の態度がよかったのか社長から参加者全員に先ほどの集成材用の鑿を全員に進呈頂いた。

写真-8 胴金落とし

 


5.大工道具の歴史を切り取った竹中大工道具館

 竹中大工道具館は樺|中工務店により、建築の生産システム化が進み、工場生産と省力化による効率化が優先し、電動工具が普及する現代にあって、次第に消えていく古い時代の道具、優れた道具を民族遺産として収集・保存し、これらの研究・展示を通じて工匠の精神や道具鍛冶の心を後世に伝えていくために昭和59年に設立された。

写真-9 竹中大工道具館入り口

 

 主席研究員の沖本弘氏の説明を受けながら、館内を見学した。1階は「道具の歴史」。古代の石器から現代の電動工具に至るまでの大工道具の発達・変遷の経過を、日本建築史を背景に、復元品・実物・写真・絵巻物で対比展示されている。「槍鉋(ヤリガンナ)」について、両面に刃が付いていると槍鉋と学術的には称し、削る道具は全て「かな、かんな」と称すると説明があった。

 2階が「原木と木組み」。日本建築物の木材資源の種類と分布、また、木の特性を生かした木組みの実例が展示されている。

 3階が「道具と鍛冶」。木材の伐採から製材・加工・仕上げに至るまでの道具展示と、それを造り上げた鍛冶の歴史や技法が説明されている。

 

写真-10 大工道具館見学風景

 2時間半みっちりとレクチャーを受けながらの見学となり、先日見学した三木刃物を思い出しながら説明に聞き入った。

 収蔵品は、大工道具が7800点、伐採・製材道具が300点、鍛冶道具が100点、そのた多数の道具や古書が展示されている。古い大工道具は一般生活の中で使い廻されていくことが多く、先祖が大工で高級道具を残しても、子孫がそれを使ってしまうことが多い。また、錆などで朽ち果てる物も多く、なかなか江戸期の道具が世の日の目を見ることが少なく収集に苦労していることが語られた。

 

 大工道具に興味がある方は、神戸に足を運ぶ機会に是非立ち寄って見学されることをお薦めします。
 見学後、有志は神戸異人館に足を運び、神戸ステーキに舌鼓を打つこととなった。

 


6.余談(肥後守)

 肥後守といわれてすぐに子供時代を思い出すのは40歳を遙か超えている方々であろうか。
 昔、子供の遊びに肥後守(折りたたみナイフ)は欠かせない道具で、竹トンボを作るとき、鉛筆を削る時と万能ナイフでした。親からこれを買い与えられるとなぜか子供からちょっぴり大人に近づいた・親に認められたと思ったのは小生だけでしょうか。
 この肥後守は九州産と思われているが、実は三木の組合業者でないと使えない登録商標である。ヒントを九州に得たので肥後守と称されている。
 昭和36年の刃物追放運動で衰退したが、最近のナイフの見直しで、少なくなった業者も再び多忙になっているとのことです。

 

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